連続投炭に砂!砂!!

行く手に阿蘇の外輪山が見えてくると、列車のスピードが「ガクン」と落ちる。九州島内の最大の難所である立野が迫ってきた。立野から赤水にかけては九州一の難所の急勾配。斜度33‰を上るため、スイッチ・バックで走破 しなくてはならない。

その昔、9600やC58が喘ぎながら上った勾配だ。 立野で5分間の停車後、I機関士の「さあ、行くよ!」の掛け声とともに、Y機関助士はワンスコから両手大スコに持ち替え連続投炭を始める。注水、投炭の連続作業。息つくまもない。キャブの中は瞬時戦場化する。

「はい、蒸気下がってるよ!上げて!!」とI機関士が大声で云う。「オーライ!」とY助士は返答する。

缶圧力計を見やるI機関士の目が鋭くなってきた。

プロレタリア文学の名作の一つ、『汽車の釜焚き』は作者の中野重治が実体験を元に書いたものだが、文中の一節を思わず彷彿させる場面がキャブ内で繰り広げられる。

今まで快適に聞こえてきたドラフト音が、一気に乱れる。「砂撒くよ」「オーライ!!」空転防止の砂を撒く。それでも空転を押さえることが出来なかったらレギュレータ・ハンドルをオフにして、カット・オフを延ばし、レールに 再粘着するようにする。 ベテラン機関士の力量が今こそ、発揮されるのだ。

バラバラと大粒のシンダーがキャブ内に降り注ぐ。赤水までの道のりは7キロと長い距離がある。機関士席の前にある省型機械式速度計の針は小刻みに時速25キロと30キロのを間を行き来している。

勾配が苦手な蒸気機関車はふつう、長い上りを登坂する場合、坂の手前の平坦部で助走をつけ、一気に上りきる事が多いが、ここ、豊肥本線ではスイッチ・バック方式で急勾配を征しなくてはならない。

立野で、引き上げ線に一旦入線し、そしてバック運転で本線に戻る。この繰り返しでジグザグに急勾配を上ってゆく。乗務員にとって辛い時間である。58654はI機関助士が大切に作った蒸気で、難所を走破しようとしている。

火床は理想的な形状の“中央が凹んだすり鉢”状を維持したいが、大スコでは匠のワザを必要とする。Y助士は焚口戸から、目が離せない。一方、I機関士の右手はレギュレーター・ハンドルに手を掛け、左手は砂撒きハンドルを握って放さない。 不意の空転に備え、全神経を58654に集中している。

機関車と対話する―そんな言葉があてはまる。人間と機関車が同化しているのだ。


  

 
機関車と一体になり難所を制覇する。そんな言葉が当てはまる場面だ

完全燃焼”の証である濃灰色の煙が後ろになびく。サミットは目前に迫ってきた。苦闘から解放されるまであと少しの辛抱である。3輌の客車はすっぽりと煙に包まれている。

郡境となる峠を越えれば絶気運転で勾配を一気に、駆け下りる事ができる。シリンダー抵抗の少ないフルギアーに、逆転機を回す。乗務員の息の合った奮闘で1分遅れの11時36分、赤水駅に58654は、滑り込んだ。2分停車を利用して足回りの点検をする。蒸気の乗務は過酷な仕事だ。

車軸や軸受けは発熱していないか、点検ハンマーではボルトの緩みを確認する。全て、触感に頼る。各部点検異常なし――。

58654は、再び、終点宮地駅を目指して軽やかに出発だ。

市ノ川を後に、夏目漱石『二百十日』の舞台となった内牧を通過してゆく。私は車窓風景に目をやる余裕がやっと出てきた。まもなく阿蘇駅に到着だ。60分停車となるため、Y機関助士はカマ替えの準備に入る。乗務員に気が休まることは無い。

阿蘇駅では今回の復活運転備え、列車交換用に2番線を復活させ、ホームもリニューアルしたという。阿蘇観光へと向かう観光客を出迎える、JR九州の意気込みを感じる。

 
サミットは目前だ


“きしゃ”の前で「はい、チーズ」


新装なった阿蘇駅に定時到着

終点宮地駅定時到着


阿蘇駅で乗客の大半が下車し、阿蘇観光へと向かう。乗客は減り、軽くなった客車を引いて、58654は終点の宮地を目指し阿蘇駅を発車した。「場内進行!」。うっすらと煙を後ろに引きながら、12時57分定時に終点の宮地駅に轍を止めた。


阿蘇駅発車。次、終着宮地!


「ピッ!」と掠れ気味の短汽笛一声で、熊本駅から従えてきた客車を宮地駅に残し、構内外れにある吉松機関区から移設されたターンテーブルへと向かう。機回しを終え、上りとなる9710列車となるべく準備のため、テンダーに積まれた石炭をかき寄せ、給水作業を行う。これらの作業が終われば、乗務員と58654は、14時30分までやっと一息入れられる。本当にお疲れ様と、云いたい。

58654を取り囲んでいたファンの姿もいつの間にか見られなくなり、いつしか広い構内には静寂が戻っていた。

一人残された私は、つい数分前まで想像を絶する乗務員の奮闘の一挙手一投足が脳裏に刻まれ、感動のあまり放心状態となっていた。この添乗は生涯、決して忘れることは無いだろう。

そんな感動に浸っている私に傍の58654は、笑っているように思えた――。



 
焔g松機関区から移設されたターンテーブルに乗る 58654は次の仕業までしばしの休憩だ

取材協力:九州旅客鉄道株式会社 熊本支店
       熊本運転所 熊本駅 阿蘇駅 宮地駅

添乗日:1988年8月29日


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