“58654を動かす人たち”――よみがえれ大正生まれのモダンボーイ


湯前線で最後の活躍をする58654 球磨川第4橋梁を渡る

児童雑誌に掲載された記事の一部を再構成したものです。
再掲にあたり、登場する人物は仮名にしました。


58654の現役時代の画像

九州の地に煙再び――

南国九州に再び蒸気の煙が上がった――。大正生まれの名機“ハチロク”が鉄路に蘇ったのである。機関車番号「58654」。大正11年11月に日立製作所で産声を上げたオールドボーイは、同社で製作された62番目の機関車だ。

58654は新製配置機関区の浦上を皮切りに早岐、吉松と転属し、日夜、普通列車や貨物列車の先頭に立った。

蒸気終焉のころの昭和40年から昭和41年にかけての年末年始には、臨時急行「ひとよし」が運転され、58654が牽引する姿も見られ昔日、急行列車の先頭に立つ姿を思い起こさせてくれた。

昭和50年3月9日、湯前線を最後に本線上から引退するまで334万キロ余を走行し、55年間の現役生活にピリオドを打った。廃車後は、肥薩線矢岳駅構内にある「人吉市蒸気機関車館」で余生を過ごしていた。

JR発足の昭和63年、「58654」は鉄路にその勇士を蘇らせるべく、小倉工場に入場。国鉄OBを初めとする同工場の検修陣の執念とまでいわれた動態復元工事を受け、入場から6ヶ月を経て、新製同様の姿に生まれ変わった。昭和63年8月28日から僚機が活躍していた豊肥本線で動態保存『あそBOY』として、颯爽とリズミカルなドラフト音を私たちにまた、聞かせてくれるようになったのである。


ハチロク復活までの険しい道のり

昭和62年4月1日新生、JR九州が発足したが民営化を前に九州総局内では“民間企業になるにあたり何をすればいいか?”という意見交換が活発に行われていたという。門鉄管内からは「(九州でも)蒸気機関車を走らせよう!」という声が上がったが、当時の上層部からは「今後の経営に足を引っ張るような“お金”がかかることは出来ない―」などの理由からこの蒸気運転は一度、見送られた経緯がある。

その当時、蒸気機関車運転計画を立案した一人で今回の蒸気運転復活に尽力したO氏は、「九州にまた、蒸気機関車を走らせたい。観光資源の豊富な九州で運転すれば、数年で元は必ず取れる!」と、熱意を上層部にぶつけたものの、莫大な資金を必要とする理由から頓挫し、計画自体はお蔵入り寸前だったという。

『民営化を機に全国で蒸気機関車が走り出し、そこそこの収益をあげているでしょ。それに(経常利益が)上方修正されるなど、JR九州の業績も好調なスタートを切れたという追い風がふたたび、私たちのプロジェクトに吹いてくれたんです』と、当時を振り返りながらO氏は復活までの険しかった道程を述懐する。

この「蒸気復活プロジェクト」は当初、6人でスタート。特に資金面を担当したO氏の上層部に対する日参要求がなければ運転までこぎ付かなかったとまで言われていた。

                    
                                      
     58654は用途廃止後、仲間のD51 170と共に矢岳駅構内にある「人吉市SL」展示館に静態保存されていた

O氏は続けて『次に走らすカマの選択に入ったんですけど当初は、小倉工場に静態保存されているC59を一番候補にしたんです。しかし、ゴーキューは、軸重が重くて幹線にしか入れない。それと長年、屋外に展示してあったため雨水でボロボロの状態。仕方なく、島内で一番状態が良く、どこにでも入線が可能な車輌は、と探し求めたんです・・・』」そこで白羽の矢がたったのが人吉市が管理していた「58654」だったわけだが、返却を前に人吉市はJR九州に対して難色を示したという。 

それは復活運転を実施するのは人吉市のある肥薩線ではなく、豊肥本線だったからである。JRと市当局は審議を重ねながら年に数回、「58654を肥薩線に乗り入れをする」という条件で最終的にはひとまず落ち着き、無償返却が実現したのである。


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