昭和62年1月に小倉工場へ入場した「58654」。数々の難題が山積したが、のべ300人もの国鉄OBと一億円もの巨費を投じ、当初の予定より早い6月30日、全ての修復工事を終了する事ができた。この間、小倉工場以外の国鉄工場の協力があった事は、あまり知られていない。58654は昭和50年3月に人吉機関区で火を落としてから一度も、焚かれた事がなかったカマに新たな息吹を入れる火入れ式は、7月2日の大安が選ばれた。
祝詞奉上の後、火入れ式は行われ早速、昼過ぎから小倉工場内で試運転が行われた。大勢の関係者が見守る中新たな息吹を吹き込まれた58654は、予想以上の好成績を収め、13年ぶりに本線に返り咲く事ができた。
7月21日に、後輩のED76に引かれ、OBの見守る中、小倉工場から深夜、第二の活躍の舞台となる熊本運転所へと旅発って行った。
58654は小倉から黒崎まで一往復。電報での達しのため沿線にファンの姿も無く試運転は終了した
久々の里帰り、『ひとよし号』快走!
小倉工場から回送された「58654」は、ねぐらとなる熊本運転所に7月22早朝に到着。長旅の疲れを落とした。一ヵ月後の営業運転を前に、あるときは単機でまたあるときは定数いっぱいの客車を引きながら毎日、試運転が繰り返された。その間、問題箇所も見つからず、国鉄技術陣OBの優秀さが改めて認められた。
連日繰り広げられた試運転も終了し、すっかり熊本運転所の顔となった「58654」。営業運転を前に、招待客を乗せ、仲間の待つ「人吉蒸気機関車展示館」を訪れる日がやってきた。
8月22日と23日の二日間をかけて「SL ひとよし号」として熊本〜人吉〜吉松間をドラフト音を響かせた。古巣の人吉では大勢の地元民が、蘇った「58554」を暖かく出迎えた。同地で開かれたセレモニーでは、現役時代に450立方尺のテンダー容積表があった部分に復活を記念して砲金製のメモリアルプレートが付けられた。
銘板には、『この機関車は大正11年日立製作所で造られ、昭和50年3月9日の最後の運転まで間、九州各地で活躍しました。その間地球を84周しました。
昭和63年8月 九州旅客鉄道株式会社』と、記されていた。
またこの日は長年、展示館で一緒だったD51 170との汽笛吹鳴がありその音は遠く、吉松まで聞こえたという・・・。
58654の3音室とD51 170の5音室汽笛の吹鳴。汽笛は遠く吉松まで聞こえたという
深夜に響きわたる点検の槌音――
カーン、カーン、コン、コン」乾いた金属音がレンガ造りの熊本運転所にある古ぼけた機関庫に響き渡る。
時計の針は、23時を少し回ったところだ。そろそろ眠りにつこうとする人もいる時間に、点検ハンマーと油ポンプを片手に検査掛の人たちが明日の仕業に備え、点検に入る。
足回りから始まり、ボイラー関係、キャブ内点検など検査項目は数百にも及ぶ。2人掛りでたっぷり、3時間は必要という。体中が油まみれとなる、辛い仕事だ。
蒸気全盛時代には“庫内手”と呼ばれていた人たちがその任にあたり、一日も早く憧れの機関士になるべく歯を食いしばって仕事に耐えたという。蒸気機関車が無くなる以前にその職制も、なくなってしまった。
目から、耳から触覚から人間の五感全てを集中し不具合は無い様に作業を進める。経験とカンがモノを言う職人的要素の高い職場でもある。安心を約束する点検ハンマーの音が心地良い――。
IT化されたこの時代に何と原始的な方法だろうか。しかし、これがもっとも“正確”であり、検査掛と物言わぬ機関車の間にコミュニケーションが生まれているのだろう。
「緩解!」 「オーライ!!」
「レギュレーター! 「オーライ!!」
“輸送の安全は最大の使命である”――検査掛の方たちは、表舞台に決して出る事は無いが、重要な仕事に携わっているという、仕事に誇りがあることは十二分に伝わってくる。
プレートのちょっとした傾きが気になるという。こだわりの境地だ
深夜の庫内は保火番が定期的に見回りに来る。蒸気ならではの仕事だ